十一月の中旬に、ドイツ鉄道(Deutsche Bahn, DB)がセールを行ったきっかけで、ドイツ南の大都市ミュンヘンに行ってきた。一番印象に残ったのは「青騎士」派の画家たちの作品を多く収蔵しているレンバッハハウス美術館であった。青騎士から突っ込み、二十世紀初のドイツ現代デザイン史を理解したくなり、また、夏休みの時行ってきたバウハウス美術館で吸収した知識がつながっているのだ。「書到用時方恨少」と言う中国の諺があり、急用になる時、知識不足で悩むという意味だ。こうして、常に新たな物事に接し、いつか役に立つかもしれないと感じた。
青騎士(Der Blaue Reiter)
19世紀末に、ドイツとオーストリア各都市から、対象を客観的に描き伝統的なアカデミズム絵画に反抗し、生活や機能と結びついた新たな造形芸術を目指し、絵画から建築、工芸まで革新運動を行っていた。とりわけ、ミュンヘンにおいて1909年「ミュンヘン新芸術家協会」が結成し、ワシリー.カンディンスキーが会長に就いた。しかし、芸術表現のあり方が沢山の規則が決められ、ついにカンディンスキーは規則の四平方メータル超えるサイズの作品を描いた後、退会した。1911年、カンディンスキーとフランク.マルク(Franz Marc)は共に新たな芸術運動に取り組んだ、それは「青騎士」であった。二人とも青が好きで、またマルクは馬が好き、カンディンスキーが騎士好きなので、「青騎士」と名付けたと回顧録で述べていた。青騎士が目指しているのは、物事の外面的な特徴を描くことばかりを乗り越え、芸術家における内的精神から発散すること。芸術作品は内側から鑑賞者に語りかけ、見る者はその声を聴くという内的必然性とカンディンスキーが提唱していた。また、激しい色彩を用いて感覚を直接に訴える絵を描くのが特徴、当時ヨーロッパで盛んでいた印象派とは反対に位置し、表現主義と呼ばれている。1914年まで、青騎士が活動したのはわずかの3年でしたが、後世に与えた影響が大きく、20世紀における現代芸術の先駆けであった。
青騎士の一員である。
(上)Alexej Jawlensky,「BILDNIS DES TÄNYERS ALEXANDER SACHAROFF」,1909
(下)August Macke,「 DER GEIST IM HAUSGESTÜHL」,1910
ワシリー.カンディンスキー(Wassily Kandisky)
ロシア出身の画家であり、大学で法律と経済学を勉強した。三十歳の時、法律関連の仕事をやめ、ミュンヘンで正式的に美術学校に通うことになった。彼は、「共感覚」といった生まれついた才能を持っていた。共感覚を持つ人は文字に色を感じたり、音に色を感じたり、形に味を感じたりするのだ。彼は、色彩が聞こえるので、動作を抽象化し音符のようなものを開発した。たとえば、派手な黄色は高いトランペット音、ダークブルーはチェロ、ライトブルーはフルートに当てる、絵を描くことは、まるで交響曲を編成するかのようだ。彼の作品は、大きく二つのグループに分け、「即興」と「組成」であった。具象であっても事物そのままの形からは離れ、一般に、抽象絵画の創始者とされる。1933年にナチスによるバウハウス(註①)が閉鎖されるまで、11年間教師に就いた。彼は、色彩、構図など基礎教育を系統化し、また理論の上では精確に視学の概念が伝えることで、バウハウスで最も重要な教師と思われている。1937年に、彼の作品はナチスによるドイツの美術館から押収されたし、「退廃芸術展」(註②)で展示していた。第二次世界大戦が終わり直前の1944年7月にフランスで亡くなった。
(上)Wassily Kandinsky,「KOMPOSITION X」,1939
(下)Wassily Kandinsky,「IM SCHWARZEM VIEPECK」,1923
レンバッハハウス美術館(Städtische Galerie im Lenbachhaus)
ドイツ第三帝国時代(Das dritte Reich)に、青騎士の一員としたガブリエレ.ミュンター(Gabriele Münter)が退廃芸術と思われる様々な作品を、家の地下室でに隠して庇護し続けた。戦後、1957年80歳誕生日に際して、ミュンターはこういたコレクションをミュンヘン市に寄贈した。内訳は、自身の作品群、80点以上のカンディンスキーの絵画作品及び他の青騎士芸術家たちの作品であった。この一件によってミュンヘン市立ギャラリーのレンバッハハウスは一夜にして、その名を世界に知らしめる美術館となった。2009年に、建物を拡張および復元するために、ロンドンのミレニアム・ブリッジ を設計したフォスター・アンド・パートナーズ(Foster + Partners)建築事務所に依頼し、今年の五月に再開したところだ。かなりの人込みだが、ドイツ人の割合が多い。激しい色彩によって強い印象付け、創作者の考えが何度なく近づけるから、人々に愛されるのだろう。私も、フランクの絵に魅了した。彼は、動物を原始と純潔と象徴し、自然と共生する調和なユーとビア世界がよく絵の内容に伝えた。
(上)レンバッハハウス美術館内部
(下)Franz Marc, 「DREI KATZEN」,1913
註
①バウハウス(Bauhaus)
戦後、ドイツ国内において、戦敗に対する社会革新したい思想が沸いてきた。その中、建築家のグロピウスはデザイン(芸術)と建築(技術)と結びついた斬新な学校を実現したがる。1919年に、ヴァイマル共和国の支持下でバウハウスが設立された、工芸、写真、デザインなどを含む美術と建築に関する総合的な教育を行った学校である。「Bauhaus」はドイツ語で動詞「Bau」と名詞「haus」との組み立て、家を建築するという意味だ。当時、芸術家と職人を兼ねる人材がいないので、「デュアルシステム」を行った。それは、芸術表現、色彩、構図を担当する形態教師(Form meister)と、技術、工芸、材料を担当する技術教師(Handwerks meister)と共に教育を実行する方法であり、カンディンスキーは形態教師であった。1933年にナチスによって廃校するまでに、三名教頭先生に経って、大きく三つ時代に分けられ、1919年-1928年はグロピウス、1928年-1930年はマイヤーがデザインを規格化・数値化・計量化し、合目的性・経済性・科学性を徹底的に重視し、産業と提携したため、バウハウスは初めて黒字を生んだ。1930年-1933年までには機能主義を重視したミース.ファン.デル.ローエであった。わずか14年間に、合理主義と機能主義的な芸術を目指すため、バウハウスはその学校名を示すのみにもかかわらず、その流派やスタイルの代名詞になる、現代デザインのモダニズムに大きな影響を与えた。
②退廃芸術(Entartete kunst)
アドルフ.ヒトラーは1910年までのドイツ芸術の水準の高さを賛美する一方で、それ以後に進んだ芸術が「退廃」を嘆くと著書の『我が闘争』で非難した。そして、19世紀半ば以降印象派、野獣派、ダダイスムなど現代芸術は退廃芸術と呼ばれた。1930年にナチスは近代美術が道徳的、人種的に堕落したものとし、またドイツ社会において民族感情を害し、一連の禁止政策を打ち出した。1937年4月、宣伝省はナチス政権獲得4周年を記念する展覧会を企画し、同時に退廃美術を誹謗する展覧会も開こうとした。7月、ミュンヘンで行った退廃芸術展は、32ヶ所ドイツ美術館から押収した650件の芸術作品を展示し、200万超えの観客が殺到。その内訳では、青騎士であるフランクと、バウハウスの教師たちであるカンディンスキー、クレー、シュレンマーの作品が含まれていた。