授業紹介
夏学期のドイツ語の授業は月曜日に対面授業、木曜日にオンライン授業という形で進められました。教材はオンラインで購入する必要があり、これも自分では手間取ってしまったのでバディの方に手伝ってもらい購入できました。有難いことです。授業では積極的な発言が求められます。インドからの留学生の方たちが積極的に発言し、ドイツ語も日本を含めて他の国からきた集団の中で一番上手でした。インド人の友達にどうしてそんなに上手いのと聞いたら、インドでは中学や高校の時から英語以外の第二外国語授業があるのだそうです。その友人は自分は7年以上ドイツ語を学んでいるのだと言っていました。インドの方ほど積極的に発言はできませんでしたが、なるべく発言することをこころがけ、毎回5回以上は必ず発言することができました。
一度、このドイツ語はラテン語由来ですかと聞いたときに、目を輝かせて、本当に素晴らしい!そのとおりです!と先生が褒めてくださったことが記憶に強く残っています。私はラテン語をほんとうにちょぴっとしか知らないし、基本的な文法もなにも分かっていません。
だから日本ではそういうことは恥ずかしくて言えないですが、こちらでは友達や目上の人と会話するときもeinfach(とりあえず)発言することができます。そういうところから何か会話や考えが始まったりするので、日本での、発言内容はある程度完成されたものでなくてはといけないというような前提が、自分には窮屈だったと感じます。せっかく留学しているので、そのような自分に合った「ドイツ人的な考え方:Deutsche mentalität」をこれからも積極的に探し、吸収していきたいと思います。
現地の生活。教会などについて
たまたまドイツの牧師さんが大学で勧誘をしており、京都にいたときも一年以上教会に通っていたので、その方たちの日曜礼拝や聖書を読む会に参加するようになりました。
日本の大学でもあるように、大学構内でカルト団体の勧誘が行われているのではないかと考え、その牧師さんには、出会った当初、何度か「あなたの教会は普通の一般的なプロテスタント教会ですか」と確認し、その返答の様子から大丈夫だろうと思えたのでそちらの教会につながりました。長い時間を彼らとともにし、ドイツ留学中の孤独が癒されるばかりではなく、彼らと共に聖書を読むことはキリスト教の理解につながりました。また、困っていたときに病院に連れて行ってくださったり、ドイツ語を教えていただいたりと何度も助けられ、彼らには深く感謝しています。ただし、数か月以上そこにつながる中で、どうも普通の教会ではないということが分かりました。友人に聞いたところ、普通の教会では聖書の章句を比ゆ的に解釈するのがドイツの教会では一般的ですが、私が通っている教会のひとびとは聖書の内容が一字一句言葉通りに正しいと考えていました。
最初、そのことにかなり衝撃をうけました。例えば、彼らは進化論を信じていません。そういう人々がいることは聞いてはいたけれど、実際に目の前にいる彼らがそうだと思うと不思議でなりませんでした。そんな人はアメリカの物凄い田舎にのみ存在するのだと思っていたからです。聖書を字義どおりに正しいとして読めば、いくつかの聖書の箇所は同性愛差別や女性差別につながります。私はその教会を離れようかと考えました。しかし、彼らは強く信仰心をもち、彼らの親切さや隣人愛にあふれた「善い」在り方は、聖書を字義通りによむという「悪い」在り方から来ているのだと分かると、簡単に彼らのことを裁き、判断することはできなくなりました。日本の牧師さんたちに彼らのことを相談すると、すぐに離れた方がいいと言われましたが、私にとって彼らとの時間は癒しや楽しさをもたらすもので、完全に離れることがいいとは思えませんでした。結果的に、聖書の読み方について牧師さんと長い時間聖書について話し合い、私の信仰とあなたの信仰は違うが、これからも礼拝や聖書を読む時間を共にしようという結論に落ち着きました(礼拝は週に一回かそれ以下だけで、それ以外はリベラル派の教会に行くことにしましたが)。結果的にこれはとてもよかったと思います。
また彼らのような在り方は、私に一つの啓示を与えました。それは、矛盾した複数の考えを自分の脳内に同居させて、あとは自身の感情や分別を導きに考えていけばいいということです。これまで私は、正しい考え方は常にひとつであり、それ以外は間違っているから自身の知識に含んではならないという信念を持ったとても狭隘な完璧主義者でした。しかし、彼らの原理主義的在り方はもともとプロテスタントの創始者であるルターのカトリックのアレゴリー的解釈を批判した立場を踏襲しているし、彼らは信仰がゆらぐことがないようにあえてアレゴリーや解釈を自らに禁じていました。それはある意味では合理的だと感じました。同時に、もともと京都で通っていたリベラル派の教会での教えもまた、すべての人を包み込み、弱い人々によりそい、古い掟や社会的に困難な状況から解放するという点で、非常に合理的だと思います。私はその原理主義的な教会と、以前に通っていたリベラル派の教会の2つの存在によって、自身の頭の中に別々の互いに反する考え方を飼うということを学びました。そのうえで、自らの感情や分別にそって判断していけば、悪くない考えが浮かび、よい方向付けができることを知りました。
これは私にとって非常に大きな前進でした。他の多くの人もそういった考えや信条は持っていると思いますが、このことは頑固な私では経験しないと理解できない考えでした。どのような意見や立場も(それがある程度考えられた意見であれば)いったんはそれを頭に入れて、違和感や自身の心の方向付けに沿って考えれば、自分の考えであったり、自分が前提としていた立場が分かってきます。私は以前、常識や世界に自分を合わせなくてはならず、また、正しい考えのみを学ばなければならないという固定観念にとらわれていました。しかし、今は自身の感情を大事にし、そのうえで別の考えを摂取していけばいいということを学びました。そうすれば、デカルトの言っているような良識が働き、自分に即した考えや言葉がどこからか自然に降ってきます。そしてそれは誰にも否定されたり、自分で投げ捨ててしまうべきではないことです。初めて私は自分と自分の考えを大事にすることを学んだかもしれない。そして、今まで説明したような姿勢を持つことで自分にとって近づきがたい人々や考えも、その根底にあるものはなんだろう、何を伝えたいのだろう、何が言いたいのだろう、と一旦、その知識を受け入れ、自身の考えと共に脳内に同居させることができるようになりました。
京都の教会の人々、毎日のようにメールや通話をしていつも私のことを気にかけて心配してくださる日本の牧師さんたち、そして、ドイツで出会えた教会のひとびと、そして留学生活をサポートしてくれるひと、すべての人に感謝します。今回学んだことを忘れずにこれからの留学生活を続けていきたいと思います。