①カルチャーショックを受けたこと
フランスに来て以来受けたカルチャーショックは多くありますが、その中で特に私が驚いたのは、フランスでは多くの人種と宗教、文化が混在していることです。フランスには本当に様々な人たちがいます。国籍も肌の色も体格も食生活も宗教も一様ではなく、ずっと日本で生活してきた私にとっては衝撃的でした。
個人的に印象に残っているのは、一緒に日本食を作って食べようと友人たちを家に招いた時のことです。当日になって数人の友人がムスリムであり、イスラム教の規則に従った処理の仕方をされた肉しか食べられないことが分かりました。日本から持参したルーも使用できないため、カレーを作る予定だったのを急遽変更しました。思い返すと「学食でいつもサラダしか食べていないな」とか、「サウジアラビアから来たって話していたな」とか、気付けるタイミングは幾度もあったはずで、そうできなかったのは異なる文化に対する私の知識と配慮が浅かったためであると反省しています。
しかし、異なる文化が混在しているとはいえ、それぞれが互いを尊重しながらフランスの中に共存しているとは感じませんし、決して人権意識が高いとも思いません。アジア人女性の私から見たこの国は、社会的にも経済的にもまず白人が強く、アジア系は社会的に弱い立場にいます。
②歴史認識について
カルチャーショックの話に関連して、日本人とヨーロッパ人との間にギャップを感じた出来事についてお話します。
私には10か月の留学期間を通して仲の良かったある友人がいました。彼女はフランス人ではありませんが、フランス語はネイティブ並みで、正規学生としてこちらの大学に通っていました。彼女は日本に関心があり、私はヨーロッパに関心があるので、しばしばお互いの国のことや歴史についても話していたのですが、あるとき彼女に「アメリカが第二次世界大戦時に日本に原爆を落としたことは正当であったと思うか(donner raison)?」と聞かれました。
私の答えは「全く正当ではない」でしたが、それを聞いた彼女は信じられないというような顔をして、「アメリカは戦争を終わらせるためにやったんだよ。じゃないともっと多くの犠牲が出ていた」と返されました。また「日本が戦争中に韓国にしたひどいことを知ってる?(慰安婦問題について)」とも言われました。
私は親しい友人にそのような言葉を掛けられたことがとてもショックでしたし、悲しかったです。また同時に腹立たしくもありました。私ももちろんアメリカがそのように主張していることは知っていますし、慰安婦問題についても日本人として知っておかなければならない最低限の知識は心得ているつもりです。確かに2度の原爆で戦争は終結しました。ですが、「原爆を使用する」という行為が正当であったとは私は決して考えません。例えば原爆を落とされたのが彼女の母国であったとして、彼女はなお「原爆は正当な行為であった」と主張するのでしょうか?彼らは「勝った」国で、いまなお世界で「強い」国で、残念なことに、歴史は彼らにとっては都合の良い形でしか受容されえないものなのかもしれません。あるいは彼女の母国がかつて多くの国を植民地支配していた歴史もまた、彼女にとっては好意的なものであるようでした。
そしてまた、彼らは原爆の被害を受けた人々のこと、国のことを何も知らないのだと思います。私が原爆を強く否定するのは、そのむごさや恐ろしさを幼いころから聞かされ、目の当たりにしてきたからです。原爆資料館を訪れた経験のある人は、誰もあの出来事を簡単に肯定しえないのではないかと思います。
この出来事から私が学んだことは2つあります。1つは、私たちは自分が強者でありうる可能性を常に意識しているべきであるということです。今回は私は「敗戦国日本」という弱者の立場でしたが、異なる多くの場面において私はまた強者でもありうると思います。例えば、戦時中、朝鮮に対して日本という国は明確に強者であっただろうし、また今日の食事に困らず、清潔な衣類を身に着け、教育を受けられているという点で、それを持たない人と比べて私は強者の立場にいます。あるいは日本人の両親を持ち、日本語を母語として話す純日本人として日本に生まれたということも、日本という場面においては強者でしょう。しかし同時に、女性であるという点では私は日本でもなお弱者です。
私たちはおのおのが、それぞれの場面で強者にも弱者にもなりえます。そして自身が強者である場面では、私たちはそのことをしっかりと自覚して、自分とは異なる状況にいる弱者の世界を見ようとする努力をしなければならないと思います。直接的に大きな行動は起こせないとしても、私は親の暴力に怯えて、満足に食べられていない子供たちのことを考えないといけないし、日本で暮らす外国人の生きづらさを理解しようとする必要があると思います。日本で女性の立場がいつまでも低いのは、多くの男性が女性の生きている世界を見ようとすらしていないからかもしれませんね。
そして2つ目に、私たちはより多くの物事を知らなければならないということです。再び核兵器を使用してむごい被害を生んでから、「こんなことになるとは知らなかった」という言い訳はもう許容されえないと私は思います。完璧な人はいませんし、全てのものごとにたった1つの正解があるとも思いませんが、この出来事から私は、知識は選択を確からしい方向に導きうると考えました。私たちは、それぞれにできる範囲でより広く世界を見ようとする姿勢を意識的に保っていなければならないと思います。
あるいはまた、自身が弱者の立場にいるとき、私たちはそのこともよく知らなければならないかもしれません。日本が世界でどのような立場にいるか、どのように扱われているか。私たち女性の尊厳は十分に尊重されているか。差別や不平等に対して、あるいは自身が軽んじられていると感じる場面で、小さくても構わないから、私たちは声をあげ続けなければならないと私は考えます。